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院長ストーリー

久保家の長男として生まれる

昭和41年8月19日大阪府泉南郡岬町深日に久保家の長男として生まれる。
兄妹は妹が2人で長女は2つ年下、次女は7つ年下の3人兄妹でケンカしたり遊んだりして育ちました。

父と母は忙しく、いつも母方の祖父と祖母に面倒をみてもらっていました。
私が4才頃まで母方の家に祖父・祖母と家族で同居していたので子供の面倒をみるのが祖父と祖母の仕事になっていたのかもしれません。
しばらくすると親が独立開院し商売(酒屋、プロパンガス、薬店)を始めるということで、祖父の家から歩いて10分程の所に店舗兼住居を建設し、祖父の家を出て家族4人で住むことになり、私が小学校1年の時に次女が生まれ5人家族になりました。
両親の商売は順調で、将来的には商売を大きくするために岬町の府道沿いに土地を購入したのが今、私が整骨院をしている場所なのです。

幼少期

小学生でアルバイトを経験

私は小・中学校の頃は、勉強より体を動かすことが好きで体育が一番好きでしたので体育だけは成績が全校生徒の中でもトップクラス、勉強は中下ぐらいでした。
小学生の時は、ソフトボール、空手、そろばんを頑張ってやっていましたし、新聞配達のバイトも小学生5・6年の2年間で経験しました。
この時、お金を稼ぐことの大変さと大切さを勉強させて頂きました。

空手

運動部の厳しさを乗り越えるきっかけ

中学に進む頃は、プロ野球選手になりたくて入学してすぐに野球部に入部したのですが、同級生が50人以上入部したためレギュラー争いが大変で、練習の厳しさや先輩のシゴキが凄く、2年生になる頃には同級生は10人になっていました。
この時の経験が人生で1番辛く感じたので、その後の高校、大学、専門学校、社会人の厳しさを乗り越えることが出来たのだと思います。

野球

中学2年になるのと同時に父の勧めで町の柔道場に行くことになりました。
父は学生時代柔道をやっていて、私に柔道をやって欲しかったのだと思います。小さい頃よく柔道を遊びで父としていたのを覚えていますから。昼は野球、夜は柔道のスポーツづけの毎日が始まりました。

突然の他界

それから1年たち中学3年になる前の春に突然、父が亡くなり、私と母と妹2人が残されたのです。
妹はまだ小学生と幼稚園で男は私1人でしたので、この時、「自分が家族を守らなければならない、幸せにするには自分がしっかりしなくては」と子供心に思ったのを覚えています。
そんな思いを胸に、お葬式では1度も泣くことなく毅然としていました。

父の思いを夢に

中学時代の初めは「甲子園に出場してプロ野球選手になる」と将来の夢を考えていましたが、父が亡くなり、中学3年のころには父の思いを将来の夢にしようと「柔道でオリンピックに出場する!」と思いが変わり、「柔道をやるなら強い高校、名門でやりたい」と母に相談しました。

すると母の知人が、当時和歌山で一番強い学校の監督を知っているということで話が進み、和歌山で7年連続インターハイ出場、私が入学する2年前にはインターハイ団体準優勝、個人の選手ではインターハイ上位選手を大勢排出している、和歌山県立和歌山北高校に入学することになり本格的に柔道人生が始まりました。

強豪校での厳しい現実

中学生の頃の私は町道場でやっているだけのレベルでしたので、周りとの実力の違いは歴然でした。
先輩達は高校全国レベルの実力者ですし、同級生も中学時代は全国レベルの実力者が入学しているので、格闘技をやっている人は知っていると思いますが、弱い者ほど練習がきつくなるし大変でした。
当時の私は、体型も担任の先生がバレーボール部と間違えるぐらい細くて背が高かったので、柔道の練習よりトレーニングやランニングの方が好きでした。

強くなりたい!あきらめず、粘り強く!

それでも強くなりたいため、私は高校の寮に入り正規の練習が終わってからよく自主トレーニングをしていました。
その結果が出だしたのが高校2年の秋ぐらいで、体重も重くなり柔道のレベルも個人的に全国レベルになっていたと思います。
高校3年間の成績では和歌山県の個人無差別級新人戦ではベスト8に入賞し、和歌山県団体優勝メンバーに入り、全国高校柔道選手権大会団体ベスト8、インターハイ団体3位になることができました。これも、諦めず粘り強く努力した結果だと思います。
この高校1年の時、柔道が弱いためか良く怪我をして、高校OBの整骨院に通って治してもらうことが多くあり、この時初めて柔道整復師という仕事があるのを知り、「人を治して感謝されながらできる素晴らしい仕事」に憧れていました。
もし出来るのであればこのような仕事をしたいとも思いました。

柔道への道、邁進

高校卒業後、近畿大学に進学して社会科と商業科の教員免許を取得しました。
大学での柔道の成績は、全国ジュニア選手権86kg以下級近畿代表で出場し全国ベスト16、関西大学選抜で2年連続で韓国遠征に行き、ソウルオリンピック前だった当時、韓国のオリンピック選手と練習、試合をするという経験をしました。

ソウル大学にて
ソウル大学にて

この大学での4年間で色々な経験を積み進路を考えた時、柔道選手としては警察官、教師、実業団の道がありましたが、憧れの柔道整復師になるため、柔道の特待生で入学させてくれる北信越柔整専門学校に入学しました。

将来を決めて強くなる

北信越柔整専門学校は、石川県金沢市にあり、全国柔整柔道大会で5年連続優勝している柔整学校の柔道名門校でもあります。

全国柔整柔道大会
全国大会優勝
全国大会優勝

この学校に行くと決めた時から一番強い時期でした。勉強も人生で良くやった時期です。

朝からお昼まで勉強、お昼休みには食事をして図書館で勉強し、夕方から柔道の練習、夜はトレーニングジムに行き精一杯努力してきたつもりです。

柔道の結果としては入学してすぐ全国団体メンバーに入り、石川県体重別選手権95kg以下級優勝し全国柔整学校柔道大会で団体優勝。個人では優秀選手賞をもらい、全日本柔道選手石川県予選3位になり、卒業と同時に四段を取りました。

全国大会優勝
全国大会優勝
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その後、30歳で五段を取り柔道は引退しました。

修業の始まり

学校の成績はトップクラスに入っていました。
卒業後は学校の講師で残らないかとも声をかけて頂いたのですが、将来のことを考えて、大阪に戻り鍼灸学校に入学することにしました。
北信越で柔道整復師の免許を取得して大阪に戻り、関西医療学園鍼灸科に入学することになり、今度は整骨院で働きながら鍼灸の勉強をする更に忙しい日々が始まりました。
この時期が今の仕事、整骨院の土台になっています。

厳しくも楽しい修業の毎日

朝、7時30分に整骨院に入って手作りのシップを作り、8時から治療し、11時から鍼灸学校に通い17時に整骨院に帰って来て20時30分まで働いていました。
この時期は、良く働き勉強した時期でもあります。
この整骨院はよく流行っていて、3人の術者でいつも100人以上の患者さんを治療していました。骨折、脱臼、小児肘内障、捻挫、打撲を診て治す経験を多数させて頂きました。
ですから、この時の院長に良く怒られ、悔しい思いや嬉し思い、楽しい思いなど色々な経験をしました。

鍼灸学校の成績もトップクラス、卒業試験でトップの成績で卒業できました。これは、学校の行き帰りの電車片道1時間半、往復3時間毎日電車の中で勉強したのが、結果として出たのだと思っています。

目標どおりに開院!がしかし…

働き出して3年以上になると院長の代わりに院を任せて頂けるぐらいに成長し、修行が4年以上過ぎる頃、岬町で平成7年5月1日に開院しました。
30歳まで整骨院を開院すると柔整学校に入った時に決めていたので、28歳の春に開院し29歳で結婚。30歳に長女、33歳の時に長男誕生し、家族4人となりました。
開院して3か月ぐらいして1日100人以上の患者さんが来院され、それを1人で治療し5年ぐらいした頃、疲労が溜まったのか原因不明の「フッシャー症候群(自己免疫疾患)」になり、一時はICU(集中治療室)にまで入り2ヶ月入院、無事退院できたものの、1ヶ月の自宅療養を余儀なくすることになったのです。

難病によってやってきたターニングポイント

家族、患者さんに迷惑をかけ幸せを自分が守れなかったことに悔しく、情けなく、涙しました。
そしてこの時3ヶ月間療養したことで色々と考える時間ができ、今までの考えや行動を反省して家族の事、これからの久保整骨院の経営の事、これまでの治療法の見直し、さらにはコミュニケーションの考え方、やり方などを変えようと思い、元気になってから多くの自己投資(セミナー受講)をしました。
その結果、院経営の方向性が変化していき、この時が自分自身と久保整骨院のターニングポイントになりました。

3ヶ月間の長い長い休診が終わってから、人を育て、「自分がもし倒れても患者さんや家族などに迷惑の掛からない院づくり」をした結果、整骨院を4院経営することになりスタッフは30人以上の会社経営になりました。

しかし、この体制を数年してみて「やっぱり自分は経営者より一人一人の患者さんに向かい合える治療家で居たい」と思うようになりました。そうした思いから、現在は1院のみにして体と心の痛みを抱える人の幸せを守る治療をしています。

ついに最高の治療法と出会う

大学を卒業して治療家になり28年が経ち、様々な治療法を習い修得して患者さんに提供してきました。
その中で一番考えたのが、「自分が受けたい治療法を患者さんに提供すること」、具体的には「体に負担がかからない軽い刺激で、早く結果の出る治療法」でした。

初めは普通のマッサージ、その後スパイラル・テーピングとの出会いがあり勉強しました。
しかしスパイラル・テーピングは皮膚の弱い人はかぶれて治療ができなくなる、日に当たるところに貼るとテープの形に日焼けする、汗をかくと粘つくという欠点がありました。

もっと欠点のない治療法はないかと、手技だけで治療できる方法を探してAKA、横山式筋二点療法、カイロ、小林式脊椎矯正法などを数年勉強しました。スパイラル・テーピングの様な物質的な欠点はなかったものの、これらの手技は強刺激であり治療時間も長いため、患者さんに負担となるという欠点がありました。

このように色々と治療法を探し続け、ようやく自分の求めている治療法に出会ったのです。
『活法整体(かっぽうせいたい)』と『手技研(しゅぎけん)』という治療法で、これらの治療法は、治療時間は短く軽い刺激で患者さんの体に負担をかけないものです。

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この2つに今まで勉強してきた治療法を合わせて使うことで、体のバランス(体の歪み)を整えたり痛みを取ることはもちろん、感情を変化させ体のエネルギー(気)を上げ、自然治癒力も上げることができるようになり、28年間治療を勉強し続け進化させ、最高の治療法になりました。

「人の幸せを守る治療家」としての原点を忘れない

今までの治療歴の中で心の残っているのは、顎関節脱臼を整復した時のことです。

ある日曜日、私が結婚はまだしていなかった頃、開院してすぐのことです。
勉強会から実家に帰ったら、玄関先に見知らぬ女性(75歳)が椅子に座って口を押えながら泣いていたのです。その横に母が立っていたので私が「どうした」と言うと、母が「この方が顎が抜けて自宅からここまで乳母車を押して歩いて来たのよ」と言いました。

後から知ったのですが、この方は一人暮らしで電話をするにも顎が抜けているので喋ることができないため思いついたのが、前に知人から聞いた私の自宅に15分歩いて来たのだそうです。
早速、両手で左右の顎関節を触ると左の顎が抜けているのがハッキリ分かりました。
その女性を早く治してあげたくて口腔外顎関節整復法をしたところ、数秒でガクと音と共に整復され女性はすぐにしゃべれるようになり、痛みも消失したようでした。

そのとき女性が「ありがとう」と言いながら私に抱きついて泣いていました。
痛みと不安の涙から喜びと安心の涙に変わった瞬間でした。

となりでそれを見ていた母ももらい泣きをしていました。
私も思わず泣きそうになってしまいました。
わざわざ私を信頼して頂いて顎が痛く口が閉じないのに歩いて私の自宅にまで来て頂いたことが嬉しかったのです。

人の喜ぶ顔と幸せを自分の手で守ることが出来たことが私の治療家としての自信と経験になり、心に残る1日となりました。

この思いを今でも忘れず、毎日、患者さんの喜ぶ顔と幸せを想像し願いながら、すべての人に温かい心と手で治療をおこなっております。

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